東洋町の歴史(幕末維新)

東  洋  町  の  観  光・  幕  末  維  新・  歴  史  編

①  東  洋  町  の  概  況
  東洋町は、高知県の東端にあり、総面積は約74k㎡。人口は2,620人(平成29年1月末現在)。太平洋に面した町で、冬場にはダルマ朝日が海上から昇ります。徳島県南部とは同一生活圏で、方言や風習にも阿波の特徴が混じります。産直店「海の駅」の出品者や買物客も徳島県側に大きく依存しています。
  温暖多雨の自然に恵まれ、野根川流域の水田は圃場整理がすすみ、良質米産地となっています。生見や甲浦地区は、ポンカンや小夏などの果樹栽培が盛んです。甲浦港や野根漁港を拠点にした沿岸漁業も基幹産業のひとつです。山地率は85%で山林も多く、土佐備長炭も生産されています。甲浦湾や白浜海岸生見海岸は、マリン・レジャーやマリン・スポーツが盛んです。
  おもな観光は白浜海水浴場、海の駅東洋町、野根の土曜朝市、生見サーフィン、四国のみち野根山街道、白浜ぶっちょう造り町並み、野根浦カギ曲がり道路、春日神社の大杉、野根八幡宮と春日神社の流鏑馬、甲浦八幡宮のひよこち踊り、白浜五社神社の神輿だんじり祭り、熊野神社のトントコ祭り、白浜甲浦の左義長、清流野根川の鮎釣りと桜並木など。
  特産品として、こけらずし、野根饅頭、ポンカン・小夏、野根平野のお米、味くらべ日本一・野根川の鮎、新鮮な魚介類などがあります。

②  東  洋  町  の  歴  史
  約1500年前、東洋町から徳島県海陽町にかけての一帯は、土佐国にも阿波国にも属さない脚咋別(あしくいわけ)という小国家でした。
  戦国時代まで、野根と甲浦を支配していた野根氏は、天正3年(1575)長宗我部元親に滅ぼされました。当時の城跡がいくつも残っています。
  慶長5年(1600)山内一豊が土佐藩主となり江戸時代を迎えます。甲浦港は海の東玄関としても重要でした。土佐と阿波の国境なので関所跡が四カ所あります。野根から奈半利へ至る35㎞の野根山街道は参勤交代なども利用。室戸岬への海岸ぞいは四国遍路が利用し、現在は主要道路となっています。

  幕末維新歴史編作成にあたり、天正地検帳、南路志、土佐州郡志、皆山集、土佐国群書類従、高知県神社誌、高知県史、土陽新聞、高知新聞、地元主要文献などを対比引用しました。

③ 東  洋  町  の  幕  末  維  新
(1)野根山二十三士(野根山事件)
[勤王の大獄]
  文久3年(1863)全国的に勤王弾圧が強まり、土佐藩でも勤王弾圧を強め勤王志士たちを次々と投獄するようになった。
[二十三士の岩佐屯集]
  元治元年(1864)7月、土佐東部の勤王志士23人は野根山岩佐に屯集し藩庁に「藩政を勤王に改め、獄中の土佐勤王党主武市半平太など勤王志士たちの釈放」の嘆願書を出した。しかし嘆願書は拒否され、逆に討伐隊が岩佐へ向かった。
[阿波宍喰へ越境]
  二十三士は岩佐を出て、阿波国宍喰に越境し、海部郡奉行所に「我らは京都大阪へ行きたいので取り計らってほしい」と嘆願した。しかし阿波国も勤王弾圧の最中であり、望みかなわず、約1カ月間阿波国牟岐に預けられ、土佐へ送還となった。国境で阿波から土佐へ引き渡されたとたん、罪人駕籠に押し込められ、田野の牢獄に送還された。
[奈半利川原で処刑]
  同年9月、二十三士は、野根山街道を通って田野の安芸郡奉行所の牢獄に収容され、同5日、取り調べもないまま奈半利川原で斬首された。これにより土佐の勤王運動は大きな痛手をうけた。いっぽう坂本龍馬や中岡慎太郎など、脱藩した勤王志士は薩摩や長州でめざましい活躍をした。
[史跡・真乗寺]
  甲浦中町の真乗寺は土佐藩討伐隊本部となった。またこの寺は土佐南学中興の祖・谷時中の生誕地であり、記念碑も建立されている。

(2)江藤新平の遭厄記念碑
  明治維新の功労者・もと司法卿の江藤新平は、人権運動の父、自由民権運動の先駆者と言われている。明治7年、新政府は佐賀県の不満士族をわざと挑発して反乱(佐賀戦争)を起こさせた。江藤新平は反乱士族を説得するため佐賀に帰ったが、意に反して反乱軍の首謀者に仕立てられた。
  江藤は、佐賀の戦場を抜け出し、板垣退助や林有造らを頼って高知県に来たが助けてもらえず、東京へ向かう途中、同年3月29日甲浦で捕縛された。そして九州に送られて処刑された。岩倉具視・大久保利通・伊藤博文ら政権奪取派と、西郷隆盛・板垣退助・江藤新平ら征韓派との政争事件であった。
  明治22年、江藤は西郷隆盛らとともに逆賊から一転して明治維新功労者となり、大正5年正四位が贈位された。翌6年、甲浦青年団により「江藤新平君遭厄記念碑」が建立された。現在この記念碑は平和塔敷地内にある。

(3)自由民権家・岡軌光(おかのりみつ)の墓
  白小石(しろこいし)共同墓地の西隅に、自由民権家岡軌光の墓があり、碑文は植木枝盛が書いている。岡軌光は明治11年大阪に出て、自由民権運動家になり、愛国社設立や植木枝盛の在阪運動を助けた。当時の植木枝盛日記に最も多く名前が出ているのが軌光である。明治19年病死する。

(4)義侠人・福村安兵衛(ふくむらやすべえ)の墓
  文久3年(1863)天誅組の大和義挙で、吉村虎太郎ら土佐の勤王志士が多数戦死した。現安田町中山出身の石田英吉は、このとき重傷を負って幕府軍から逃れた。それを助けたのは野根浦の豪商・帯屋こと福村安兵衛であった。安兵衛は自船の船底に石田をかくまって大阪から脱出させた。
  安兵衛に救けられた石田英吉は維新後に出世して、高知県知事になったとき田野町福田寺の野根山二十三士顕彰碑建立に尽力した。石田は、命の恩人安兵衛の恩に報いるため、安兵衛の息子武太郎の留学を支援した。
  明治7年、佐賀戦争から抜け出して高知県に来た元司法卿江藤新平も安兵衛の義侠心を頼って野根浦に来たのだが、あいにく安兵衛が不在だったため、助けてもらえず、甲浦まで来て捕縛されたのだった。
  白小石共同墓地に福村家の墓があり、安兵衛戒名・聞法院乗宗居士=船に乗せた「乗」の一字。息子武太郎戒名・特留院斯經居士=留学の「留」の一字が彼らの人生を語っている。

(5)坂本龍馬と東股番所(ひがしまたばんしょ)
[史跡・東股番所跡]
  江戸時代、甲浦東股内港の奥に東股番所(関所)があって、和田家と小南家が代々、番所役人をつとめた。旧土佐街道の本街道は、山道を登り、宍喰峠が土佐阿波の国境。阿波国に入ると阿波国側の古目番所(こめばんしょ・関所)があった。東股番所から古目番所まで徒歩40分ほど。
[坂本龍馬が番所で長刀術を披露]
  坂本龍馬が江戸で北辰一刀流長刀術免許状を授かっての帰途、東股番所に立ち寄って長刀術を披露したと伝えられる。長刀は、幕末期に勤王志士たちの間で大流行した。龍馬は流行の最先端・長刀術をさっそく披露したのだった。
[野根山二十三士・阿波から引き渡し]
  野根山岩佐に屯集した二十三士は、追っ手を逃れて阿波国宍喰に越境した。さらに京都大阪へ行こうとしたが、望みかなわず土佐へ送還となった。国境峠で阿波から土佐へ引き渡され、東股番所を通過するときは罪人駕籠に押し込められていた。野根山街道を通って田野の安芸郡奉行所の牢獄に収容され、取り調べもないまま奈半利川原で斬首された。

④  東  洋  町  の  古  城  跡
(1)御殿跡とクサマルハチ自生地
  甲浦港西股の南岸・四国水産冷蔵会社付近は、藩主山内一豊公の土佐初上陸地で、参勤交代の御殿や船蔵があった。宝永大地震後に御殿を舟越に移し、舟越の馬小屋を御殿跡に移した。背後の山には戦国時代の城跡があり、古地図には御殿松山と記されている。長宗我部元親が阿波国進攻のとき、ここを拠点とした。天正地検帳には、吉松孫右衛門、久武彦右衛門、奥宮蔵人などの武将が居住していたと記されている。
  ここは亜熱帯性シダのクサマルハチ自生地でもある。茎長150㎝に達する大型シダで、昭和43年東洋町天然記念物に指定されている。

(2)御殿地(ごてんち)
  舟越の御殿地(甲浦小学校敷地)には、長宗我部時代に役所(政所や番所)があり江戸時代には参勤交代に利用する馬屋ができた。宝永地震のあと(1)の御殿をここに移転し、ここにあった馬屋を御殿跡に移した。以後ここを御殿地と呼ぶ。ここは、明治時代にも役所として利用されていたが、大正10年に甲浦小学校が移転新築された。

(3)甲浦古城跡
  甲浦西股港北岸背後の里山には、何カ所か城跡の遺跡がある。古地図には中町から西町にかけての裏山が古城山と記されている。この付近は野根氏以前の支配者、野根氏など、甲浦の支配者が替るたびに次々と城が作られたらしい。

(4)吉田武重居城跡(のち桑名将監居城)
  天正3年、長宗我部元親が野根氏を阿波国に追い出して、野根甲浦を手中におさめたあと、超願寺谷の上に城館をかまえ吉田武重を甲浦代官に任命した。武重の戦死後は、野根城主桑名将監に兼任させた。城跡は、超願寺と万福寺との間の尾根にあり、場所や面積も天正地検帳の記録に一致する。江戸時代になると、甲浦中町の真乗寺西隣に庄屋屋敷ができた。

(5)池山城跡(池山寺跡)
  名留川樫地川上流の尾根筋は平坦地になっていて、平安時代ごろには大池があり、池山城(池山寺と一体)を中心に栄えていたという。宝永大地震の翌年に大池が崩壊したため、城跡(寺跡)の場所はわからない。池山寺の本尊は高知県下最古クラスの十一面観音像で、現在は名留川法喜院にまつられ、高知県指定文化財となっている。また、池山寺文書は延文5年(1360)に、野根領主長盛の署名がある。

(6)内田古城跡と義賊じねんの墓
  内田地区背後の山に野根氏の城跡がある。天文年間に中村の古土居に「野根城館」を作って移転するまでは、ここが本城であった。山麓には野根山内一族の広大な墓所があり義賊じねんの墓も含まれる。じねんは高知や徳島まで一夜で往復して、金持から盗み、貧乏人に施す義賊だったという伝説がある。

(7)野根城館跡と、躍堂(おどりどう)
  中村地区の古土居の平地に、野根城館があり、戦国時代末期に野根氏が本拠とした。この城館は長宗我部時代になると代官桑名将監が住んだ。また、野根中学校と小学校の間の水田地帯を躍堂と言い、昔、ここで野根氏の一族が盆踊りの最中に長宗我部元親軍の奇襲攻撃をうけた。野根氏は戦わずして甲浦へ逃げ、さらに阿波国へと落ちのびていった。躍堂の水田地下から出土した五輪塔数基は、宝寿寺境内に移されている。古土居の城館跡の地下からは、長宗我部軍の焼き打ちによる炭化した地層が確認されている。

(8)愛宕城(あたごじょう)跡
  野根の本城は内田古城で、のちに中村の古土居に城館を移した。天文年間、野根浦が整備され、背後の山に野根浦管轄の支城ができた。長宗我部軍に焼かれ、跡地に愛宕神社が祭られたため、現在は愛宕山、愛宕城跡と呼んでいる。山麓には、桑名将監の墓、野根郷庄屋や野根浦庄屋の墓所もある。
(9)丸山城跡
  葛籠地区と名留川地区の間の小山(丸山)の頂上には戦国時代に長宗我部元親が野根氏と和睦の条件に築いた付城の跡がある。付城とは見張り櫓であり、長宗我部軍が野根氏の動きを常に看視していた。天正3年、野根一族が盆踊りに浮かれているのを見て、丸山城の長宗我部兵が野根城館を焼き打ちした。

(10)野根益長(のねますなが)の墓
  押野地区の地蔵庵境内に野根領主・益長公の大永6年の宝筺印塔墓がある。大斗地区の城福寺には益長公の位牌と記録が現存する。

(11)白小石と里神社
  天正3年7月、長宗我部兵の野根城館奇襲により野根一族は阿波国へ落ちのびていった。その途中、野根国長は燃上する城を振り返って「ああ、城恋し」と嘆いたという。それで白小石という地名になった。場所は野根浦の東はずれで、いまは共同墓地になり、里神社という小祠もある。野根氏や安芸氏をはじめ、安芸郡下惟宗一族の始祖とされる曽我赤兄を祭っている。

⑤  東  洋  町  の  番  所(  関  所)  跡
(1)東股番所跡(ひがしまたばんしょあと)
  江戸時代には、ここに番所(関所)があって和田家と小南家が代々、番所役人をつとめていた。旧土佐街道の本街道は、ここから山道を登り、宍喰峠が土佐と阿波の国境(今は県境)宍喰峠。峠を下ると阿波宍喰浦で古目番所があった。土佐の東股には「東股番所跡記念碑」、阿波の古目には「古目関所跡」の記念碑が建立されている。

(2)元越番所跡(もとごえばんしょあと)
  江戸時代、旧土佐街道元越線の要所にあった番所で、当初の番人は村山家と中島家。のち、中島家から多賀家そして高畠家に替わった。元越番所から山道を登ると元越峠・ここが土佐阿波の国境で、峠から下ると宍喰の馳場に着く。ここに阿波国の元越番所があった。土佐の元越番所跡に「元越番所跡記念碑」阿波の元越番所跡の「元越関所跡記念碑」が建立されている。


(3)川口番所跡(かわぐちばんしょあと)
  野根川上流の川口番所跡は、野根奥から北川村や阿波国宍喰への交通要所にあり、土佐阿波の国境番所。現在は往時の石垣が残る。なお、同名の宍喰川口番所は宍喰浦にあって、港湾監視と宍喰浦の治安を守っていた。

(4)伏越番所跡(ふしごえばんしょあと)
  伏越ノ鼻、国道のすぐ上にある。江戸時代、甲浦東股番所で旅人は通行手形(自国発行の身分証明書)の確認を受け、土佐一国の通行許可証を発行してもらい、土佐路に入る。野根からは、一般の旅人は野根山街道を通るが、四国遍路は海岸線を通り、24番札所室戸最御崎寺をめざす。このとき伏越番所で通行許可証に裏書きをしてもらう。淀ケ磯はまともな道路もなく、波が荒いと通れない。そんな時、この番所役人が門を閉じて旅人の通行を禁止する。

(5)岩佐番所跡(いわさばんしょあと)
  野根山街道は江戸時代、野根と奈半利を35㎞で結ぶ主往還で、そのほぼ中間の岩佐に内番所(うちばんしょ=藩内番所)があり、土佐三大関所のひとつだった。一般の旅人はもちろん、参勤交代でも利用された。野根山街道は養老2年(718)の開設とも言われる。徳川幕府により全国主街道に1里ごとに設置された一里塚が、ほぼ原型どおりに残るほか、野根山二十三士事件、土御門上皇の土佐配流、お産杉の伝説、宿屋杉、岩佐番所跡などの史跡や伝説も多い。現在、岩佐は北川村分だが、江戸時代は野根郷庄屋の管轄区域であった。昭和57~8年に「四国のみち野根山街道」遊歩道として整備された。

⑥  東  洋  町  の  寺  と  神  社
(1)真乗寺(しんじょうじ)と、谷時中(たに・じちゅう)
  真乗寺は、浄土真宗東本願寺派で、甲浦中町にある。戦国時代末期に道場山に創建され、のち、山すその現在地に移転した。
  谷時中は慶長3年(1598)真乗寺に生れ、のち高知市瀬戸真乗寺に移住。仁義忠孝礼節を尊ぶ南海朱子学(通称・土佐の南学)をきわめ、師道を確立し南学中興の祖とされる。真乗寺境内に「谷時中先生出生之地記念碑」がある。藩主や野中兼山など江戸時代初期の人材を育て、慶安2年(1649)没す。高知市瀬戸に墓と清川神社があり高知市指定史跡となっている。元治元年の野根山二十三士事件のとき、高知城下から討伐隊が来て、真乗寺を本部にした。
(2)万福寺(まんぷくじ)と、法華経塔(ほっけきょうとう)
[万福寺]
  当初は舟越にあったが、寛文10年(1670)日琢上人の来訪を機に、法華宗(日蓮宗)檀家の甲浦庄屋島崎家や商人たちにより法華宗寺院として再建に着手し、天和3年(1683)に落慶した。宝永地震(1707)のあと、西町の現在地に移転再建された。本尊十界曼陀羅、経王堂、清正公堂、陸奥国藩主寄進の三十番神、法華経塔などがある。
[法華経塔・県指定史跡]
  万福寺参道の石段途中にある法華経塔は、貞亨元年(1684)建立で、同じものが高知市五台山と宿毛市にもあり、昭和54年に3基とも県史跡に指定。甲浦は南海地震のたび津波に襲われ津波の高さが次のように記録されている。  ※安政(1854)の南海地震のとき津波が経塔まで達した。
  ※昭和21年の南海地震の津波は石段5段目まで達した。

(3)超願寺跡(正式名ちょうがんじ、呼称ちょんがんじ)
[超願寺跡]
  建永2年(1207)浄土宗開祖の法然上人が流刑され、一時甲浦に草庵を結んで滞在し、浄土宗を布教した。その跡にできたとされるのが浄土宗超願寺。もとは大寺院で、長宗我部元親の養子が住職となり、元親の位牌もあった。江戸時代は参勤交代の宿所にもなった。現在は無住職の小庵で、悲劇の甲浦代官冨永伊織夫妻の墓、庚申様、弁天池などがある。町指定史跡。
[冨永伊織夫妻の墓]
  寛永10年(1633)甲浦代官冨永伊織と、普請役人沢三之丞との刃傷事件(通称・三十三年目の因縁)があり、三之丞は横死、伊織は切腹した。この事件の史跡は、甲浦中町の冨永伊織神社、甲浦八幡宮脇社の若宮神社、白浜の妙見神社、白浜光本米穀店前の供養地蔵などがある。

(4)熊野神社(くまのじんじゃ)と、トントコ祭り
  西暦806年、紀州熊野神社のご神体が12に分かれ、そのうちの一つが金の鳥になって、二子島の松の木に飛来したのを、お迎えして熊野神社を創建したという伝説がある。鳥居のない神社。樹齢1200年の大きな楠。トントコ祭りでも有名。トントコ祭りは毎年旧暦9月17日に、ご神体を乗せた御座船を先頭に、大漁旗で飾った多くの漁船が隋伴し、トントコトントコと太鼓を打ち鳴らしながら、二子島へと海上パレードをくりひろげる。
(5)五社神社(ごしやじんじゃ)
  白浜の氏神様。寛文9年(1669)創建。白浜の開祖・明神信勝と住吉四神とを祭る。毎年旧暦4月29日には、みこしとダンジリのけんか祭り。

(6)甲浦八幡宮(かんのうらはちまんぐう)
  国道から小池川を約1㎞上った所に第三セクター阿佐海岸鉄道経営の日本一短いローカル線・阿佐東線の終着・甲浦駅がある。
  甲浦駅に隣接して甲浦八幡宮がある。大祭のひよこち踊りは、小池原河内地区が当番の年に奉納されるもので、平成元年に県保護無形民俗文化財に指定されている。享禄4年(1531)新造立の棟札に地頭惟宗朝臣毘沙楠丸とあり、野根の豪族野根惟宗(のねこれむね)氏が甲浦地区に進出し、支配下におさめた事が推定される。

(7)西山神社(にしやまじんじゃ)
  生見の西山神社は、通称西ノ宮、西宮神社とも呼ばれ、江戸時代の記録には清座神社とある。祭神は女神様と言われ、女人禁制であった。もし女の人が境内に入ると、楠木がふるえだし、天にまきあげられると言われている。むかしこの神社は海に向いて建っていた。ところが沖を通る船が生見沖で急に止まってしまう。それで、神社を西向きにかえて海が見えないようにしたら、沖の船が止まることもなくなったそうな。
  この神社には、もともと13本の楠木があった。明治21年に、当時の総代の提案でこの神木を売ることにした。1本だけ残して12本を切り倒し、大阪の材木問屋に当時の三千円という大金で売ることが決まった。ところが、甲浦村長が、この楠は村有林であると主張し、生見の神社側と裁判になった。明治28年12月、高知地方裁判所で村有林として結審し、村議会において、あらためて正式伐採と売却が許可された。ところが売却代金のほとんどは、8年間におよぶ裁判費用で使い果たしていた。現在、境内にある楠木は、このときに切り残した一番小さい木であるが、それでも、目通り周囲が6m半、根元周囲12m、樹高40mの堂々たるものだ。

(8)野根八幡宮(のねはちまんぐう)と流鏑馬(やぶさめ)
  鎌倉時代に野根領主・野根氏が創建した。毎年10月第一日曜日が祭日。神輿は定員25人で高知県下最大。疾走する馬上から矢を射る流鏑馬神事は、高知県下では野根八幡宮と野根春日神社のみで、町指定の無形民俗文化財。社林にはヤッコソウが自生している。

(9)明徳寺(めいとくじ)
  江戸時代、ここには観音寺があったが、明治維新の廃仏毀釈で退転し、跡地に弘法大師堂が建立された。昭和南海地震のあと、真言宗明徳寺が中村からこの地へ移転し、同居している。古くは「野根大師」いまは「東洋大師」と呼ばれ四国遍路の番外札所となっている。背後の山にはミニ八十八カ所がある。

(10)浄念寺(じょうねんじ)
  江戸時代初期に浄土真宗の道場として開基され、のち浄土真宗浄念寺となった。幕末期に住職が貧民救済や部落解放にたちあがり、人権運動の先駆けとして有名な寺院。戦後いちはやく境内に銀杏保育園が開設された。

(11)天満寺(てんまんじ)と、庭園
  曹洞宗天満寺は、もと永徳寺(えいとくじ)といい、野根領主・野根氏の菩提寺だったが、明治初年の廃仏毀釈で廃絶。明治12年に阿波小松島から天満寺の寺号を勧誘して再建した。もとは阿波藩主蜂須賀家の隠居寺という由緒ある寺院である。愛宕城跡の山麓にあり庄屋や豪商の墓所も多い。この付近は、寺町(てらまち)と言うほど、多数の寺や庵があった。城の前面に多数の寺を配置するのは、戦国時代に作られた町並みの特徴である。
  小堀遠州流の庭園は、東洋町指定名勝で、正徳4年(1714)に造られた。背後の愛宕山を借景にして、伝統的な心字池を配する質素簡潔な庭園である。

(12)宝寿寺(ほうじゅじ)
  真言宗宝寿寺は、昭和南海地震で倒壊した明徳寺の跡地にできたもので、四国八十八カ所第二十六番札所津照寺の隠居寺となっている。ミニ八十八カ所巡りの出発地でもある。

(13)野根ミニ八十八ケ所(新四国八十八カ所)
  これは四国八十八ケ所札所のかわりに88のお地蔵様を配置して巡礼するもので、明治31年開設。中村地区の宝寿寺境内に一番地蔵があり、二番目からは山道に入り、池地区への尾根づたい約3㎞に配置され、明徳寺の背後の山道に最後の八十八番地蔵がある。

(14)春日神社(かすがじんじゃ)、大杉と流鏑馬神事
  名留川の春日神社は、江戸時代に奈良の春日大社から分霊勧請された。境内の宮林は町指定天然記念物で、とくに、目通り周囲八mの大杉で有名。祭日の流鏑馬(やぶさめ)行事も、町指定の無形民俗文化財である。

(15)法喜院(ほうきいん)と、名留川観音堂古仏群
  法喜院は名留川(なるかわ)の真言宗寺院。寺内の観音堂古仏群は、もともと池山にあり、池山観音堂と言ったが、宝永大地震後に池山が崩壊し、片山に移され、さらに法喜院に移された。本尊十一面観音像はじめ20体の古仏群は、平安時代に流行した観音信仰が、いち早くこの地に伝来した事を物語る。高知県有形文化財に指定されている。

(16)城福寺(じょうふくじ)薬師堂
  大斗(おおと)地区の曹洞宗城福寺にある薬師堂は、以前は「大斗薬師」と呼ばれ、近郷の厄よけ信仰で有名だった。本尊薬師如来坐像は平安時代の作で、名留川観音堂古仏群に次いで古い。寺には野根の殿様・野根益長(のねますなが=法名・明巌心鏡)の大永8年(1526)の位牌があり、その墓は押野の地蔵庵に現存する。

(17)薬師瑠璃堂(やくしるりどう)
  川口集落は山腹の斜面に石垣を築いて民家が点在する「石垣の村」である。薬師瑠璃堂には、文明11年(1479)銘の「来迎弥陀三尊(らいごうみださんぞん)石仏」があり、年代を刻む石仏では高知県下最古級。境内に力石(通称ばんもち石)もある。日増谷の対岸に川口番所(関所)跡がある。

(18)玉泉寺(ぎょくせんじ)と柿ノ木
  真砂瀬(まなごぜ)地区は、野根地区で最も奥の集落。昔から柿とお茶の名産地であった。玉泉寺の大きな柿ノ木は、地区の象徴。真砂瀬の地名は、野根川の流れがこのあたりからゆるやかになり「真砂」が見えるからという。
  本堂のほかに「子安(こやす)さん」という子授けご利益のお堂がある。

(19)法海上人堂(ほうかいしょうにんどう)
  国道55号線・淀ガ磯の庄屋谷にある。国道わきに「魚よせ地蔵」、そこから山道を少し上ると「法海上人堂」がある。この地で入定した法海上人の墓石をつつむ堂庵である。昔から遍路の緊急避難あるいは休息場所であった。現在は施錠されている。

(20)御崎神社(おんざきじんじゃ)
平家落人伝説の御崎神社(おんざきじんじゃ)、御崎を回ると、東洋町と室戸市の境界・水尻(みずしり)である。


⑦  野  根  山  街  道(のねやまかいどう=四国のみち野根山街道)]
(1)四国のみち・野根山街道
  野根山街道は、養老2年(718)開設と伝わる歴史街道。江戸時代には野根~奈半利間の主街道で、延長約35㎞、俗に野根山十里と言う。現在「四国のみち・野根山街道」の遊歩道として整備されている。

(2)野根の昼寝(のねのひるね)
  野根の昼寝とは、昼頃に野根に着いたら、その日の内に奈半利まで行けないので、野根で昼寝して翌早朝に発つ事をさした言葉。海岸ぞいに室戸へ向かう遍路も、海が荒れた日は伏越番所(ふしごえばんしょ)で追い返され、野根の遍路宿で泊まって天候回復を待った。

(3)札場の辻(ふだばのつじ)と、送番所(おくりばんしょ)跡
  江戸時代、野根浦の高札場(こうさつば)があり、通称・札場の辻と言った。いまでも町役場の公示場所となっており「野根町道路元標」もある。
  野根浦の南町にあった送番所は、通信や運輸を管轄する役所で、村から村へ手紙や荷物を継ぎ送ったり、道普請の人夫出役を手配する任務だった。

(4)一里塚跡・二本松(にほんまつ)
  江戸時代初期、徳川幕府は、全国主要街道に1里(約4㎞)ごとの一里塚設置を命じた。野根山街道には現在も6つの一里塚跡が現存している。野根川ぞいの「二本松」は、道の両側に松の木を植えて一里塚としたものである。

(5)八島千軒(やしませんげん)
  野根山街道の上り口に位置し、中世交易地や宿場町の跡とされる。別役川上流には五代のツエという大崩壊があり、そのたびにルート変更を繰り返してきた。八島千軒も五代のツエの土石流で埋もれてしまったと伝えられる。

(6)芝ノ段(しばのだん)
  国道493号線下、街道難所・左手ケ坂(さでがさか)の途中に設定された休憩場所。大名行列など多人数が休める広場。通称お茶屋場とか御茶屋の段と呼ばれ、野根山街道には5カ所のお茶屋場跡が現存している。

(7)四郎ケ野峠(しろがねとうげ)
  県道493号線と旧野根山街道が交差する峠。東洋町と北川村の境界。四国のみち・野根山街道遊歩道の登山口である。峠から野根までは、国道493号線が「四国のみち」になっているが、本来の野根山街道ではない。

       [  旧甲浦町地区 概要]
⑧   甲浦(かんのうら)の町なみ
  甲浦は古くから土佐阿波の国境で、土佐の東玄関として知られた所。甲浦港は土佐と阪神方面を結ぶ海上交通の拠点であり、漁業基地でもある。
  せまい路地にはぶっちょう造りの家も多く、漁師まちのおもかげをとどめている。地名の由来は「神(カム)の浦」「甲(カブト)の浦」などの説がある。別名に「桜津(さくらづ)」がある。みとこトンネルの手前が、徳島県との県境。

[  甲浦(かんのうら)の町なみと甲浦港]
    漁業や廻船業で繁栄してきたが、約百年ごとに起こる南海地震の津波被害も受    けてきた。甲浦港は台風でも平気な天然の良港。港は内港と外港とに分かれ、    内港は西股(にしまた)と東股(ひがしまた)に分かれる。浅宇津(あそうづ)外港は、以前は高知    や阪神方面の汽船やフェリー乗り場があった。港口の、唐人ケ鼻(とうじんがはな)~    葛島間を土佐口、葛島~竹ケ島(たけがしま=徳島県分)間を京口と言う。地名の由来は、神(カム)の浦・甲(カブト)の浦・桜津(さくらづ)などの説があります。

(1)甲浦港(かんのうらこう)
  甲浦湾は天然の良港だが、約百年ごとに発生する南海地震の津波被害をうける宿命もある。漁業や廻船業で繁栄。港は、内港と浅宇津(あそうづ)外港とに分かれる。内港は西股と東股に分かれて、その形がカブトのクワ型に似るため「甲(かぶと)浦」になったとする説、湾内に甲貝(かぶとがい=クマサカガイ)がいたからという説もある。浅宇津外港は、以前は高知や阪神方面の汽船やフェリー航路があった。港の出入口は、葛島をはさんで東西2カ所に分かれ、唐人ケ鼻~葛島間を土佐口、葛島~竹ケ島間を京口と言う。

(2)甲浦港東股(ひがしまた)
  甲浦の内港は、東股と西股のふたつに分かれ、その地形がカブトのクワ型に似ているため「甲(かぶと)浦」になったとする説もある。東股には江戸時代から土佐藩の船蔵や船大工小屋があった。

(3)甲浦港西股(にしまた)
  甲浦内港のうち、熊野神社から西側が西股。西股港の周辺の里山には、古い城跡が数カ所ある。山内一豊が藩主となって初入国した所。江戸時代には港口に参勤交代の御殿があった。宝永地震のあと、御殿は舟越に移転した。

(4)葛島(くずしま)と二子島(ふたごじま・双子島とも書く)
  甲浦湾口の中央にあるのが葛島で、魚商人淡路屋と大阪の遊女玉菊との伝説は、全国的な「京女郎伝説」の一つと思われ、葛島におきざりにされた遊女玉菊が大蛇となる話。江戸時代、葛島には、灯明台やノロシ台もあった。
  葛島の左側に二つ並んだ二子島の中央が、高知と徳島の県境。約1200年前、紀州熊野神社のご神体が12に分かれ、うち一つが金の鳥になり、この島の松の木に止まった。これをお迎えして熊野神社を創建したという伝説がある。

(5)浅宇津(あそうづ)外港
  浅宇津外港には高知県漁協甲浦支所・荷揚場・市場があり、甲浦は小型漁船による延縄漁が主体。近くに土佐日記の碑もある。ただし土佐日記は創作文学である。実際に紀貫之が土佐から京都へ帰ったのは日記の設定日より半年早く、甲浦付近を通ったのは承平4年5月頃と思われる。
    唐人ケ鼻(とうじんがはな)は、地形が異国人の鼻に似ているので、唐人ケ鼻と名付けられたらしい。長宗我部時代から江戸時代にいたるまで、ここに浅宇津遠見番所があった。突端の甲浦灯台は、明治17年に地元の小川知新氏が自費で作り、のち国に移管された。


⑨[  白浜の町なみ・ぶっちょう造り民家]
  白浜地区は江戸時代初期の寛永9年(1632)に開拓された。間口3間半で整然と区画され、ぶっちょう造りの家が多い。ぶっちょうの正式名は蔀帳(ぶちょう)で、
高温多湿や暴風雨に対応している。シタミセを閉じれば雨戸、開ければ縁台。誰もがシタミセに立ち寄れる開放的な民家で、昔は京阪神や、高知県の海岸線でも多く見られた。現在は東洋町や徳島県の下灘地方に残っている文化遺産。五社神社(ごしやじんじゃ)は寛文9年(1669)創建。白浜の開祖・明神信勝と住吉四神とを祭る。毎年4月29日の祭りには、みこしとダンジリのせかし合い。

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(1)白浜の町なみ・ぶっちょう造 民家
  白浜地区は江戸時代初期の寛永9年(1632)に、明神信勝が藩命により開拓した新浦。町屋は間口3間半で整然と区画され、ぶっちょう造りの家が多い。ウワミセとシタミセを閉じれば雨戸、開ければ縁台。玄関から裏口まで通しの土間、まいら戸で土間と座敷を仕切る。ひさしが長いので夏は陽ざしが部屋まで届かず、冬は陽ざしが斜めに部屋まで届く。夏涼しく冬暖かい民家様式。ぶっちょうの正式名は蔀帳(ぶちょう)と言い、昔は京阪神の町屋や、高知県の海岸線にも多かったが、現在は、東洋町や徳島県の下灘地方に残る。屋根瓦には「淡路の千枚葺き」様式が少数見られる。


[  白浜緑地公園(しらはまりょくちこうえん)]
    白浜海岸は波静かな遠浅の「白浜海水浴場」として昔から有名。産直店で年中    無休の「海の駅東洋町」「種田山頭火記念碑」「野口雨情歌碑」などがある。    トイレ、シャワー、大駐車場なども完備している。夏はキャンプ場となる。

(2)白浜海水浴場(しらはまかいすいよくじょう)
  白浜海岸は、白砂青松で、波も静かな遠浅の海水浴場として昔から有名。昭和5年に初めて海水浴場開きを行っている。  白  浜  緑  地  公  園として整備され、町営自然休養村で、宿泊やキャンプも世話している。

(3)東洋白浜リゾートホテル:旧白浜ホワイトビーチホテル
  白浜緑地公園の東側に隣接するホテルで、海水浴客や観光客や遍路に利用されている。波をイメージした建物は白浜のシンボルとなっている。

(4)海の駅・東洋町
  白浜緑地公園にあり、地場産品や町特産品などを揃える産直店で年中無休。隣接して、  江  藤新平 甲浦遭厄の標(しるべ)がある。

(5)種田山頭火(たねださんとうか)の記念碑
  放浪の俳人、種田山頭火が昭和14年11月4日、四国遍路の途中に甲浦に来て一泊した。記念碑は、当日の日記の全文と俳句をきざんでいる。

(6)野口雨情(のぐち・うじょう)の歌碑
  昭和11年詩人の野口雨情が来て、甲浦民謡8章を作った。歌碑は雨情直筆の色紙を模写したもの。左側の説明板は下記の全8章を刻む。
    1.沖の黒潮  乗り切る船か  甲浦から  唄で出る
    2.大漁旗立て  波乗り越えて  甲浦差し  船が来る
    3.月の出頃か  波間の千鳥  啼いて渡るは  双子島
    4.向ふ葛島 日の暮れ頃は ひとりしょんぼり残される
    5.夏の白濱  海水浴場  海は遠浅  波しづか
    6.松に松風  蛤(はまぐり)掘って  涼し白濱  々遊び
    7.忘れなさるな 甲の浦は 阿波と土佐との 国さかい
    8.熊野権現  樟さへも  風に吹かれて  葉がもめる

⑩ 生見海岸サーフィン場
  生見地区は東洋町の真ん中に位置するため町役場がある。本来は農業地帯だが、背後の里山を果樹造成し、ポンカン栽培で全国的にも知られている。
  生見海岸は全国屈指のサーフィン場として、一年中、多くのサーファーが来てサーフィン大会も開かれる。民宿も多い。史跡として、西山神社大楠や生見築溜、弘法大師伝説に生見川の尻なし貝や生見浜のコウボウムギがある。

⑪[  野根浦(のねうら)の町並み]
  昔は豪商が軒を連ねる繁華街で、四国霊場二十三番札所日和佐薬王寺と二十四番札所室戸最御崎寺の真ん中に位置するため遍路宿も多かった。戦国時代のカギ曲がり道路桝型(ますがた=カギ曲がり)道路、、高札場(こうさつば)跡、送番所跡、ぶっちょう造り民家もある。カギ曲がり道路は戦国時代に野根領主が京都へ出兵して見聞した戦略道路を野根浦の町づくりに採用したらしい。上町(うわまち)のカギ曲がり道路に対し、下町(したまち)は直線道路。ほかに寺町、中町広小路(なかまちひろこうじ)
、廐屋(うまなや参勤交代の馬)、船場(せんば)などの歴史的な地名もある。
同時期に宍喰浦では永正9年(1512)大津波後に京都祇園ふうに町なみを再建したという記録が残っている。


(1)名留川(なるかわ)の伝統的農業集落群
  国道から4㎞上流の名留川地区は純粋な和風建築ばかりの農家集落で、伝統的農業集落群としての景観が評価されている。コンクリート造りやプレハブ造りもほとんどなく、農家の多くは、式台ふうの玄関をそなえた母屋、納屋と土蔵、便所と風呂などが別棟になっている。


(2)長峰用水路開削記念碑と人柱地蔵(ひとばしらじぞう)
  中島地区の鴨田橋東側にある。土手を作る時に、生きたまま埋められた人柱伝説の供養地蔵があり、野根郷大庄屋川村喜代作顕彰・長峰用水路開削記念碑と並んで建てられている。

(3)豪力長左衛門(ちょうざえもん)の墓と祠
  中島地区集会所の裏山に豪力・松村長左衛門の墓と祠がある。宝永年間に名元をつとめた実在の人で、お参りすれば勝負ごとに御利益ありとされる。


(4)野根谷(のんだに)の水
  通称「野根谷の水」は川口集落の背後にあり、高知県名水40選のひとつ。湧出した地下水が滝になり、水量も水温も一定で夏場の涼しさは格別。野根谷の上の棚越(たなごえ)台地は、昔は殿様献上米の産地で、棚越村という集落だったが、今は住家なく、水田あとは果樹栽培や植林化がすすんでいる。


(5)川口の太刀踊り
  川口の盆踊りでは土佐流の太刀踊りが演じられる。さらに野根川上流の徳島県海陽町宍喰の船津(ふなつ)は徳島県の領分ながら、川口の太刀踊りと同じ踊りが伝わり「船津太刀踊り」として保存活動が続けられている。これは野根川をさかのぼって、土佐の文化が阿波へ流入した例であろう。


(6)牛ケ石馬ケ石(うしがいしうまがいし)
  真砂瀬地区の上流、高知と徳島の県境とされる岩。昔、土佐と阿波の国境を定めるとき、いっぽうの殿様が牛に乗り、いっぽうの殿様が馬に乗り、同時に出発して、両者が行き合った所を国境にした。そのとき乗ってきた牛と馬が突き合ったまま岩になった。そこが土佐と阿波の国境である…という伝説の岩を「牛ケ石馬ケ石」と言う。ただし、土佐の民話では「馬に乗ってきたのは阿波の殿様で土佐領だった野根川の半分は阿波に取られた」阿波の民話では「馬が土佐の殿様」と逆になる。野根川は全長約30㎞だが、上流半分が徳島県、下流半分が高知県。県下有数の清流で、鮎の味くらべ全国一の経歴がある。


(7)野根川渡し場跡と標石、木食仏海作の遍路石仏
  野根浦の船場(せんば)は、渡し舟の渡し場だった。昔の旅人は野根山街道が正規の旅行ルートだが、四国遍路はここから渡し舟で野根川を渡り、室戸岬の東寺へ向かった。現在船場に[武田徳右衛門標石]、旧野根川橋西岸の庚申堂に木食仏海作の石仏があり、いずれも「東寺へ何里」と刻まれた遍路石である。木食仏海作の遍路石は地蔵ケ鼻や仏ケ崎にもある。

(8)淀ケ磯(よどがいそ)
  国道55号線・野根漁港の上の伏越ノ鼻(ふしごえのはな)から入木(いるぎ=室戸市佐喜浜町入木)間の12㎞を淀ケ磯と言い、海と山にはさまれた国道55号線。四国遍路にとっては「土佐路は修行の道」を体感する。昔は「房総のおせんこかし・越後の親知らず子知らず」とあわせ3大難所と言われた。

(9)伏越(ふしごえ)の万葉歌碑
  伏越ノ鼻の国道わきにある。万葉集にある歌の記念碑「ふしこえゆ・ゆかましものを・まもらひに・うちぬらさへぬ・なみよまずして」とある。この伏越こそ万葉集に歌われた「ふしごえ」であると、碑の裏面に刻まれている。

(10)御水谷(おみずだに)の滝
  国道わきの御水谷の滝は、清らかで涸れることもない。昔、藩主旅行のとき休憩所が設置され、殿様が水を愛でたことから「御水谷」と名付けられた。

(11)ゴロゴロの浜(とび石はね石ごろごろ石)
  丸い石ばかりのゴロゴロ浜は「土佐の音100選」の一つ。波が打ち寄せ引き返すたびに丸石が転がってゴロゴロと鳴る。四国遍路がゴロゴロ石を懐に入れると弘法大師のご利益を受けるとされる。淀ケ磯は俗に「とび石はね石ごろごろ石」という。岩から岩へ飛び移り、石から石へ跳ねながら、ゴロゴロ石で転ばぬよう、荒波よせる遍路道を通ったのであった。ゴロゴロを越すと、豆腐バエや質受けバエなどが海上に頭を出し、磯釣りの穴場となっている。

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